私は小学生の頃から「ダンサー」になるのが夢でした。
小学生の頃に見た映画『フラッシュダンス』と「『コーラスライン』に憧れ、「将来はブロードウェイダンサーになりたい!」と思っていました。
小学5年生の時に「ダンスがしたい!」と母親に懇願しました。
母親は、私のためにダンス教室を探してくれました。
それから、週1~2回のダンスレッスンに通いました。
しかし、勉強もスポーツも全く出来なかった私は、中学入学前に母親から「中学校に入ったら勉強が難しくなるから、ダンスは辞めなさい」と言われ、素直に従いました。
ダンスを辞めていた中学生の頃に、私は『マイケル・ジャクソン』を見て大ファンになりました。
マイケル・ジャクソンのミュージックビデオを見ては「マイケルのようなダンスがしたい!」と思うようになりました。
しかし、勉強がまったく出来なかった私は、高校進学が出来るかどうかわからない危機があったので、ダンスを習う余裕などありませんでした。
何とか高校に進学できたものの、商業高校だったため、毎日課題に追われる日々を送っていました。
そんな時、テレビで放送されていた『天才たけしの元気が出るテレビ』の人気コーナー『高校生ダンス甲子園』で出て来た『L.Lブラザーズ』を見て「私もこんなカッコイイダンスがしたい!」と思いました。
高校卒業後はダンス教室に行けると思っていましたが、高校卒業間近で両親が離婚をしました。
ダンス以外は考えられないと思っていたので、定職には就かず職を転々としました。
20歳の時、市内にダンス専門学校があることを知り、母親に「ダンスの学校に行きたい!」と懇願しました。
当時、私は母親と弟2人と一緒に暮らしていました。
母親は離婚後、1人親に手厚い支援のある地域に住み、公務員の仕事をしていたので、少し経済的に余裕があったようでした。
やっと自分がやりたかったダンスが習えると思ってワクワクしていましたが、入学して驚いたのが、どの授業も自分がやりたかったジャンルのダンスではありませんでした。
私がやりたかったダンスは、マイケル・ジャクソンやMCハマーのような『ストリート系のダンス』でした。
しかし、専門学校で習うダンスは、バレエ、モダンダンス、コンテンポラリーダンス、ジャズダンスでした。
他のダンススタジオに通えるような経済的な余裕もなかったので、専門学校のカリキュラムを必死で熟していました。
専門学校を2年間通い、卒業後は念願のストリート系のダンススタジオに通い始めました。
当時は市内に2つしかダンススタジオがありませんでした。
私は、自分が本当にやりたかったダンスが出来ると思い、2つのダンススタジオに通ってレッスンを受けまくりました。
ブレイキングダンス、ロックダンス、ポップダンス、ソウルダンス、ワックダンス、ヒップホップダンスなど、興味があるダンスは手当たり次第レッスンを受けまくりました。
その頃、ストリートダンスの業界は『ダンスコンテスト』で優勝することがダンサー達の夢であり、目標でした。
どのダンスコンテストも、必ず2人以上のチームでの出場が必須条件でした。
私も「ダンスチームを組んでコンテストで優勝したい!」と思っていました。
いろんなジャンルのダンスの中から私は最終的に『ロックダンス』に絞りました。
ロックダンスでチームを組みたいと思っていましたが、なかなか同じジャンルで、同じ目標を目指す仲間に恵まれず、時間だけが虚しく過ぎていきました。
私がダンススタジオに通っていた頃は、ニュースクールダンス『ヒップホップダンス』が大流行していました。
スタジオに通い始めて2年過ぎた頃に、やっとダンスチームを組む事ができました。
チームメンバーは大学生の男の子と、私より4歳年上の女性と私でした。
早速、チームメイトとコンテスト出場計画を話し合い、コンテストに出場し続けました。
チーム内のルールとして、コンテストの出場作品は各回ごとに担当制にしました。
コンテストに出場する際、出場作品は1人の人が曲、振付、構成、演出、衣装をすべて決めるルールを設けました。
最初のコンテストは、4歳年上の女性メンバーが作品制作し、コンテストに出場しましたが入賞する事が出来ませんでした。
次に、私が作品制作担当する事になりました。
私は、以前から秘策がありました。
私は専門学校で培ったモダンダンスやコンテンポラリーダンスの空間芸術や舞台演出、ありふれた振付をいかに面白くカッコ良く見せられるかを学び制作してきました。
その集大成を作品に盛り込みました。
しかし、チームメイトからは疑心的で不評でした。
チームメイトから「有名チームや先輩達と同じような作品を作るべきだ。新しい振付や構成は有名チームがやれば認められるけど、私達のような無名チームがやっても誰も認めてもらえないよ!」と言われました。
私は内心、有名チームや先輩達のものまねや似たような作品を作っても、その人達を超える事は出来ない。
新しい事、今までにない物をやらないと超えられないと思っていました。
なんとかチームメイトを説得して作品を作りました。
選曲、構成、演出、振付を、今までにはないけれど、ちゃんとロックダンスのテイストを残した作品を作りました。
結果、『準優勝』でした。
一番嬉しかったのは、3人の審査員が私の作った作品を見て「新しくて面白かった!」「今までにないロックダンスを見れて良かった!」と賞賛してくれました。
因みに、その時に優勝したチームは、私が習っていたヒップホップの先生のチームでした。
コンテスト終了後、チームメイトと話し合いをしましたが、やはり理解は得られず数ヶ月後にチームは自然消滅していきました。
「ダンスだけでは、生きていけない・・」と限界を感じた私はダンスをやめて就職を決意し、介護職に就きました。
デイサービス、リハビリ補助、入院患者のお世話をしながら約6年が過ぎる頃、突然、母親から「フラメンコをやらないか?」と誘われました。
フラメンコダンスは、映画『ダンシングヒーロー』を見て興味を持ち、習いに行きたいと思っていた時期がありました。
母親は離婚後にフラメンコダンスを習い始めていました。
母親はフラメンコを習い始めてからは、日中は仕事に行き、帰宅後はすぐフラメンコ教室に直行。
帰ってきてからは、夜中1時~2時ぐらいまで練習をしていました。
そんな生活を5~6年間ほど続けていました。
その甲斐あってか、母親は私をフラメンコに誘う頃にはカルチャーセンターでフラメンコを教えるほどになっていました。
私は軽い気持ちでフラメンコを母親から習い始めました。
ダンスを何年もやってきた私は「フラメンコなんて、簡単に出来るかも」と、フラメンコを舐めていました。
しかし、いざフラメンコを習い始めた途端、フラメンコの難しさに驚き、戸惑いました。
フラメンコを習い始めてから半年後に母親から「フラメンコ留学しなさい!」と言われました。
2001年10月から、スペインのセビージャにフラメンコ留学を予定していましたが、2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きました。
留学が出来るかどうか不安でしたが、今思えばテロが起きた事で逆に警備が厳しくなり、安全に飛行機に乗る事ができました。
約半年間のフラメンコ留学を終えて帰国。
その2年後、母親がフラメンコ教室兼レンタルスタジオを設立しました。
そして、2004年2月から2ヶ月間、再びフラメンコ留学をさせてもらいました。
留学中の2004年3月11日に、マドリードのアトーチャ駅でテロが起きました。
帰国後、母親が設立したフラメンコ教室でフラメンコを教える仕事に就きました。
当時、母親が設立したフラメンコ教室の周辺には、もうすでに5つほどのフラメンコ教室がありました。
設立当初、母親は私に「ここら辺は、もうすでにたくさんのフラメンコ教室があるから、ガツガツ集客せずに、のんびり楽しく教室を運営しよう!」と言ってくれました。
私は、母親の意見に大賛成でした。
しかし、フラメンコ教室は次々と生徒さんが入会し、一時期は120人ほどの生徒さんがフラメンコを習いに来てくれました。
レンタルスタジオも、常にキャンセル待ちが出るほどの状態が何年も続きました。
当時の私は常に3~5クラスを担当していました。
フラメンコは1曲が長い踊りで、短くても7分、長いと15分以上の踊りになります。
超初心者クラス~中級クラスを並行して指導にあたっていた私は、一日中フラメンコの事ばかり考えていました。
発表会が決まると、受け持っているクラスの振付、構成、演出、衣装、照明、強化レッスンの内容を考え、本番までを逆算して指導にあたりました。
自分が思っていた通りに進められることは少なく、ハプニングやトラブルもよく起こりました。
最初は大変でしたが、経験と慣れで発表会は楽しい行事になっていきました。
しかし、経営者である母親とのトラブルや問題が増えていきました。
母親が望む経験方針と、私が望む経営方針が合わなくなって行きました。
母親との確執が膨らみ、母親からの陰湿なイジメも増えていきました。
13年間働いてきて、3回減給されました。
私が自分の給与で購入したフラメンコシューズを、母親が無断で生徒さんに何足も売っていました。
母親と弟が使用するフラメンコ用具は、会社の経費で購入していましたが、私は
すべて自分の給与から払わされました。
発表会やライブに出演しても、出演料は1円も貰えませんでした。
私が教えている生徒さんに私の悪口を吹き込んだり、母親が気に入らない生徒さんや問題やトラブルを起こす生徒さんは私のクラスに行くように勧めたりしていました。
クラスのレベルが上がると、レッスン料金が少し高くなります。
お金が欲しいがために、母親はクラスのレベルに達していない人を無理やりレベルの高いクラスに入れ、私や弟が教える。
レベルが高いから、その生徒さんはレッスンについて行けず辞めてしまう。
辞めてしまった原因を、私や弟の教え方が悪いと言って責め立てる。
こんな無茶振りを母親からされては、母親と衝突しました。
母親の身勝手な経営方針やコロコロ変わるやり方に反発をしていた私は、2014年11月に母親から「クビ」を宣告されました。
「ダンス」と「踊り」に人生を注いできた私は、生まれて初めて「もう、二度と踊ることはないかも・・・」と思いました。
しかし、踊ること以外に何もやって来なかった私は「自分は何のために生まれてきたのか?」「このままの人生で良いのか?」「このまま、何もしないで死んで行くのか?」と思い悩み続けました。
そんな時、YouTubeでラプトさんに出会いました。
『RAPT × 読者対談7 神道とユダヤ教と悪魔教のつながり。悪魔教が日本に伝わった経緯。』
【https://youtu.be/NhNckLBYLFk】
『"RAPT×読者対談101 日本は昔も今も悪魔教の国。』
【https://youtu.be/4zv1pehIk4Y】
『ラプトブログ』
【http://rapt-neo.com/?page_id=1815】
ラプトブログに出会い、私は産まれて初めて信仰を持ちました。
幼い頃から「神様が存在している」ことを感じていたというよりは、「神様は存在して欲しい!」という思いがどこかにありました。
ラプトさんが聖書の事や世の中の事、神様の事やこれから起こる事をすべて事細かく理路整然とお話をしてくださっていました。
今まで生きてきて、謎に思っていた事や解らなかった事が、ラプトさんのお陰ですべて理解出来るようになっていきました。
ラプトさんが「神社仏閣」=「悪魔教」とおっしゃられていたのを聞いた時は、衝撃的でしたが「これが本当の答えだ!」と理解出来た時は感動しました。
ラプトブログに出会い、ラプトさんから神様の御言葉を学び始めた頃から、私が一番執着したのは「自分の個性と才能」でした。
大好きだった踊りをやめた私は、神様の御言葉を聞いて「もう一度、ダンスや踊りをするべきでしょうか?それとも、ダンスや踊り以外に他の道があるのでしょうか?」と祈り求めました。
信仰を持ち始めてから2年経った頃の事でした。
当時、小学生だった2人の娘はダンスを習っていました。
しかし、先生との相性が合わずにトラブルが続いたので、新しいダンス教室を探していました。
そして、ママ友が新しいダンス教室を見つけて私に教えてくれました。
早速、新しいダンス教室に体験レッスンに行ってみると、そのダンス教室のオーナーが母親が経営するレンタルスタジオの常連のお客さんでした。
更に、娘2人が入会した月が、たまたま入会金無料キャンペーンの月でした。
新しいダンス教室に通い出した娘2人は、すぐに上達していきました。
私も娘の影響を受けて約20年ぶりにストリートダンスを始めました。
ダンスを再開した当初は「やっぱり私は、ダンスをする事が運命なのかな」と思っていました。
ある時、河原でお祈りをしていました。
その日は、とても寒い日でした。
あまりにも寒かったので、お祈り中でしたが「踊って少し体を温めよう」と思いました。
踊り始めた時に自分でも驚いたのですが、私は今習っているストリートダンスではなく、なぜかフラメンコを踊っていました。
不思議でした。
フラメンコはもう何年も踊っていないのに。
自分でも驚きました。
踊り始めて更に驚いたのが、次から次へとフラメンコの振付が頭の中から湧き出てきて、踊り始めたら止まらなくなっていました。
「次はこれをやってみたい!」
「次はこれ!」
「次はこれとこれ!」
夢中になっていました。
お祈りが終わった後、私は「どうしてフラメンコを踊ったんだろう?」と思いました。
本当に不思議な体験でした。
2020年の9月、母親から「イベントでフラメンコを踊るから観に来て欲しい!」と連絡がありました。
以前から、母親からは何度もフラメンコを見に来て欲しいと言われていましが、断り続けていました。
しかし、何度も断るのも悪いかなと思い「今回は観に行こうかな・・」と、シブシブな気持ちで返事をしました。
イベントの日、フラメンコの踊りを見るまではいつもと変わらず「二度とフラメンコなんか踊らない!」と思っていました。
けれど、イベントが始まり母親と弟の踊りを見た途端、急に体が熱くなり「フラメンコを踊りたい!もう一度、フラメンコを教える仕事に就きたい!」と強くハッキリとした思いが込み上げてきました。
神様が、感動を与えてくださったと確信した瞬間でした。
2021年3月、約6年ぶりに仕事に復帰しました。
復帰して、まず驚いたことが生徒さんの人数でした。
私が辞める前は、約100人ほどの生徒さんが在籍していました。
しかし、コロナ禍の影響もあり生徒さんは30人ぐらいにまでに減っていました。
クラス数も激減し、レンタルスタジオの稼働率も10%~20%になっていました。
私は母親に「このままでは会社は倒産するから、経営方針を変えた方が良い!」と訴えましたが、一切聞く耳を持ちませんでした。
弟2人の事を思い、何度も会社の改革を母親に訴えましたが無理でした。
為す術もなく、ただ神様にどうすれば良いのか祈り求めました。
仕事復帰した事や自分が選んだ選択は正しかったのか、祈り求めました。
仕事に復帰し始めた頃、私が担当しているクラスの生徒さんは全員で10人弱でした。
その中に一人、60代の年配女性がいました。
彼女は最初、大人しくレッスンを受けていましたが、次第に自分勝手な事を言い始め、レッスン内容や他の生徒さんに対してクレームを言うようになりました。
私は、彼女の事を神様に祈り求めました。
すると、彼女は自分で勝手にレッスン中に問題を起こし、辞めて行きました。
他にも、いろんな生徒さんが私のレッスンを受けに来てくれましたが、気が付くと「フラメンコが上手くなりたい!上達したい!」と思っている熱心な生徒さん達だけが残っていきました。
復帰当初は、生徒さんとの距離感が掴めずに空回りすることもありましたが、今では信頼関係を築いていけるようになりました。
生徒さんの人数は少ないのですが、とてもレッスンが行いやすく、私自身も勉強させてくれるような生徒さんばかりになりました。
私が仕事復帰をして一番実感することは、神様に出会う前と出会ってからの仕事の進み具合や内容、充実感がまったく違う事です。
まず、踊りの振付です。
フラメンコは曲種によって形式や決まり事があり、他のダンスのように自由に振付を作成することはできません。
神様に出会う前は、振付を1フレーズ作るのに、いろんな動画を見たり、過去に習った踊りを思い起こしたり、他ジャンルのダンスを見て研究しては、やっとの思いで頭の中から捻り出す感じで振付を作成していました。
酷いときは、何日もかかる時もありました。
しかし、今は祈りの中で神様に「振付を教えてください!」「生徒さんに、何を教えてあげれば良いでしょうか?」と、神様に祈り求めたら、すぐに構想やアイデアが閃きます。
神様に祈り求めれば、10分もかからないうちに1曲の3分の1ほどの振付が、あっという間に制作出来る事もあり、曲によっては10分もかからない時もあります。
レッスン内容も神様に祈り求めると必ず答えを与えてくださいます。
「今度のレッスンは、どんな事を行えば良いでしょうか?」と祈り求めます。
すると、必ずアイデアや構想や閃きがあったり、過去に教わった記憶が蘇ったりもします。
本当に毎回、驚いてしまいます。
そして、つい最近になって自分が本当にやりたかった事をハッキリ見つけるこたができました。
それは、「振付師」になることでした。
振付師になって、まだこの世の中に存在しない新しい踊りやダンスを作る事が本当にやりたかったことだと気付きました。
今まで自分が本当にやりたかった事がわからずに、ただダンサーになりたい!と思っていました。
しかし、ダンサーになろうと努力すればするほど上手く行かないし、苦しくなったり辛くなるばかりでした。
人前で踊って賞賛してもらった事もありましたが、心が満たされたことはありませんでした。
神様にお祈りする中で、過去の自分の思いや考え、今まで見て聞いて感じたもの、自分がどんな事から影響を受けてきたかをお祈りの中で気付いた時、点と点が一本の線で繋がり、自分のやりたかった事がハッキリ解るようになりました。
40年以上生きてきた中で、私が一番求めていた答えを神様からいただいた時、『自分のやりたい事がわかる』ことがどれほどの原動力となり、どれほどの恵みと祝福かを実感しました。
そして、神様と一緒に作品を作ることが、どれほど楽しくておもしろくて、充実感を得られるのかも知りました。
『RAPT有料記事25(2015年11月30日 )わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。』
【https://rapt-neo.com/?p=34123】
『RAPT有料記事60 (2016年4月18日)個性と才能をさらに強烈に光り輝かせる方法。』
【http://rapt-neo.com/?p=37575】
『RAPT有料記事139(2017年1月21日)自分の中に眠っている個性と才能を開花させてこそ、真の救いが完成する。』
【http://rapt-neo.com/?p=41852】
『RAPT有料記事59 (2016年4月16日)この世の誰もが「個性」の王様だ。』
【http://rapt-neo.com/?p=37560】
『RAPT×読者対談〈第123弾〉個性豊かな才能あふれる人々を生み出す社会へ。』
【http://rapt-neo.com/?p=41533】
『ラプトブログ』に出会う前の私は、仕事に対して義務的で偽善的でした。
人を指導する立場を、ある意味勘違いしていました。
「教えてあげている」「やってあげている」みたいな、上から目線で傲慢で、プライドも高く本当に嫌な人間でした。
しかし、神様からラプトさんから御言葉を学ぶことによって、自分が与えられた仕事の意味もやり甲斐も、きちんと解るようになり、以前とは比べものにならないほどの充実した濃い内容になってきました。
生徒さんは、みるみる上達し意欲的になってきました。
今では、生徒さんが「やる気のある人」と「趣味程度か、それ以下のやる気の人」にハッキリ分かれています。
やる気のある方は少ないですが、私自身も生徒さんのやる気や意欲によって勉強になり励みになり、何より神様からいろんな答えをいただけるようになりました。
そして、今は神様からいただいた答えを私が教えている生徒さんだけに伝えるのはもったいないと思い、全国でフラメンコを習っている方で、なかなか上達出来ずに悩んでおられる方や伸び悩んでおられる方の助けになりたいと思って、新しくブログを開設しました。
【アキ https://note.com/akiyuiainoa】
フラメンコという、マイナーな踊りを通して私は神様からたくさんの事を教わり助けていただいてます。
ぜひ、皆様も『ラプトブログ』を読んで、新しい自分を発見したり、新しいことにチャレンジ出来ますことをお祈りいたします。